岩下 菅原神社
いわした すがわらじんじゃ
御神体の菅原道真は平安時代の学者・政治家で、学問の神様として知られている。菅原道真の存在を疎んじた左大臣・藤原時平の政略によって政争に敗れ、無実の罪にきせられ、九州の大宰府に左遷され、大宰府浄妙院で謹慎していたが、左遷から2年後の延喜3年(903年)2月25日に大宰府で失意のうちに薨去(こうきょ)し、安楽寺に葬られた。 享年59。
道真の死後、左遷に追い込んだ人物が相次いで早世したり、都では疫病や洪水、飢饉など不穏な出来事が続いたり、世間の人々は道真の怨霊の祟りだと噂しました。 さらに、宮中の清涼殿に雷が落ちたことで、京都・北野の地主神である火雷天神(からいてんじん)と結びついて道真=雷神と考えるようになりました。朝廷は道真の祟りを鎮めようと北野天満宮を建立。道真が亡くなった大宰府にも墓所の地に安楽寺天満宮、のちの太宰府天満宮を建立しました。
時が経つにつれて、道真の怨霊に対する恐れがなくなり、道真が生前すぐれた学者であったことにより学問の神としても信仰されるようになりました。室町時代には和歌や連歌、芸能の神として崇められ、江戸時代になると、学問の神として藩校や寺子屋で祀られました。そして、現在でも学業成就の神として親しまれているのです。 左遷。それから約20年後にようやく無実の罪は晴れ、道真公を慕う人たちによって学問の神様として祀られることになりました。
岩下菅原神社は建長年間(1249)に京都の北野天満宮を勧請
天保5年(1835・2・14)失火にて社殿古記録、鳥有に帰す。
天保14年(1843)秋再建、
明治40年(1907)明治時代、神社を減らす神社合祀政策、西園寺公望内閣が一町村に一社とする「合祀令」により小字の天神(菅原神社)、大村(神明宮)、机(諏訪神社)、姉山(八幡宮)、漆貝戸(八幡宮)の五村社を合併し菅原神社とした。
以後、
例祭として五月二十五日に五社祭
二月二十五日(五穀豊穣祈願祭)
十一月二十五日(新穀感謝祭)
※(二十五日は道真の命日)
二月節分祭
更に、明治26年7月から岩下祇園祭、神輿渡御、屋台が引きまわしされ一年の無事息災を祈った。
大正4年11月5日村社神饌幣帛神社に指定される。
大正5年2月よりお神楽奉納始まる。
昭和20年12月15日敗戦による神道指令により神饌幣帛料中止となる。
昭和32年茅葺屋根を亜鉛葺屋根
平成24年銅葺屋根に改築
現在に至る。
天井画
本殿の天井画には共通しいて神社ともに『龍』の絵が画れている。
龍は架空の生き物で、中国では権力の象徴とされています。
日本では「神の使い」として作物に実りをもたらしたり、ときに自然災害を起こして人間に警告を促したりしながら、人間の世界を守る水神様として信仰されてきました。
龍が天に昇るイメージから、成功と発展の象徴とされている龍神。
それは五穀豊穣を表し、稲にとって無くてはならない恵みの雨をもたらす水神様だ。
東洋の龍は、空中を飛行し、雨や稲妻を自在に起こす霊力を持った存在として崇拝され、神や高貴な者の象徴ともされた。
拝殿天井画には中国由来の絵が多見られ、龍、花、鳥、ウサギ、トラ、キジ、像、仙人、天女など古事由来の絵が目立つが、詳細由来は不明。
また社務所の天井画は、五社併合時、漆貝戸村の八幡神社の天井画を移設した。様々な花鳥が描かれています。
何れも明治時代で百三十年余の時代を経ている。
何れもの天井画は神仏に捧げる思いが込められた由縁やメッセージを伝える役割がある。