Kazumaro
Unno

導かれるように
向かった先で出合った、
静謐なる能面の世界。

800年あまりの
歴史ある神社に生まれ
能面に魅了された、
海野一麻呂氏。

群馬県吾妻郡の深山に位置する、岩下 菅原神社。学問の神様として信仰される菅原道真公を御神体とする京都・北野天満宮を勧請して創建されたのは1249年、建長元年のことです。そこから数多の元号を経て令和に至るまで、天保5年2月14日(1835年)には社殿が失火にて消失したり、明治時代に入ると神社合祀施策により近隣五村の社が菅原神社に合併したりと、豊穣を祈願する華やかなお神楽奉納とともに様々な物語が紡がれてきました。

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この歴史ある岩下 菅原神社に神職として奉仕してきた海野家の末子が、海野一麻呂氏です。祖先の出身は、中山道と北陸道を結ぶ重要な北国街道の宿場である、長野県の海野宿(現・長野県東御市)。千曲川沿いには『海野氏発祥の郷』が残る、平安時代から鎌倉時代にかけての東信濃の有力豪族の氏です。一族の口伝では、10世紀初頭から明治元年(1863年)まで続いた神仏習合の信仰形態の流れで僧侶から神職の奉職を得て東御市から吾妻郡へ移居、現神職で16代目を数えます。

海野家に生まれ、歴史ある神社で神事と隣り合わせの幼少期を過ごした一麻呂氏。能面に魅了されるのはごく自然の流れだったのは想像に難くありませんが、どのような半生を経て出合ったのでしょう?

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伝統芸能と
共に過ごした日々と
その素地を育んだ
吾妻郡の豊かな自然。

岩下 菅原神社がある吾妻郡は、上毛三山のひとつである榛名山の北嶺に位置し、岩櫃山、浅間隠山などの大小の山々が点在しています。吾妻渓谷温泉郷ほか源泉数が豊かで日本三名泉の一つ草津温泉や伊香保温泉、四万温泉などは有名なほか、武田信玄と上杉謙信の覇権争いにおいて重要な役割を担った岩櫃城跡があるなど、自然と歴史散策が楽しめる土地です。

「今よりもっと自然は手つかずでしたから、猪や熊やニホンカモシカも生息する小学校への通学路は麻・コンキャク・養蚕の桑畑を横目に見ながら村道を小学校に通い、帰ってくると集落にいる友だちと集まってチャンバラに興じるような子どもでした。神職の跡継ぎではないので気楽なものです。そういえば、朝8時には祖父や父、兄が太鼓を鳴らしていまして、私も何度か代わりに鳴らしたことはありますが、日々の生活では他の家と特別に変わりませんでしたよ」

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それでも、例大祭や盆正月には神職の一族らしい出来事がありました。

「お祭りのこと、盆正月のこと、氏子へ渡すためのお飾り(御供え)はしっかりしないといけない。それだけは他の家とは少し違いましたねぇ。伊勢神宮の神宮大麻、紙垂(しで)、御幣(ごへい)を暮には揃えて氏子に頒布しないといけませんから、11月ごろから準備に入るんです。当時は人口も多くとても間に合わないので、一家全員で半紙を折り切り込みを入れる、しめ縄もよるなどの手伝いをしていました」

昭和20年生まれの一麻呂氏が子供のころは、日本の原風景が各地に色濃く残り、手仕事が生活に息づく時代でした。そこに神社ならではの春の五穀豊穣祈願祭、秋の新穀感謝祭の例大祭、五社祭(近隣五村社合併)、節分祭、祇園祭等も催されたため、年間を通して多くの祭事が営まれました。

「祇園祭は氏子地域片道2.5km程の砂利道を二日掛けて3往復、太鼓を先頭に天狗、四神旗、大榊、御神輿、牛に乗った神官、山車の渡御とそれは華やかでした。神楽面も祭で身近に接していましたので普通の家よりはおのずと近しい存在になっていたのかもしれないですね」

このように、少年時代の一麻呂氏の心には、日本の伝統文化や民俗芸能が当たり前のように根ざしていました。

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東京暮らしを脱し
転居した茨城県で
能面と運命的に出合う。

成長した一麻呂氏は進学で岩下 菅原神社を離れ、東京23区内で公務員の職に就きます。仕事や家庭のことだけでなく、住んでいた地区の副町会長や祭りでは氏子総代など、趣味に打ち込む余裕はない多忙の日々が続きました。転機が訪れたのは退職間近の22年前、第二の人生を求め転居した茨城県でした。
「茨城県には江戸から伸びる水戸街道ほか、棚倉街道、下妻街道、結城街道など旧街道がありますが、それぞれを散策していたんです。そこでたまたま土浦市で開催されていた能面の展示会に遭遇、神楽面を見てきた子供時代の思い出が浮かび、心惹かれピンときたんです。若いころは時間の余裕がないのもありますが、年相応というか、日本人のDNAなのか、神社で生まれ育ったことが影響しているのか。70歳の手習いで能面を打ちはじめました。仲間には20年~30年の経験があるベテランの方がいますし、親切な方が多いので、駆け出しの私に初歩から丁寧に教えていただいてその世界に嵌りました」

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旧街道といえば宿場が出身である海野一族とは縁が深いもの。まるで先祖に導かれるように能面と出合った一麻呂氏は、すぐに茨城県内の面打同好会に入会。さっそく能面を打ちはじめましたが、繊細な作業は奥深くなかなかに難しいと実感することになりました。

「楽しく面を打たせていただく日々ですが、はじめてから変わったことといえば、人の鼻や目の形や眉毛、口元などの表情の動きを観察するようになったことでしょうか。人の表情を打つには、表情を知らないといけませんからね。難しさを感じるのは、精密に彫り進めることです。面の幅や眉間の間や目の位置、鼻や頬の高さなど顔の部位をミリ単位で記した型紙をあてて印をつけ、寸分たがわずに彫らなければいけないんですよ。とりわけ、若い女性を表現した小面は1mm以下で合わせないといけないですから、キッチリと寸法をとりながら彫り進めるのですが……。能面は不思議なもので、同じ面でもセンスなのか観察眼なのか。人によって仕上がりが全く異なり個性も出るものなんです」

能面は乾燥させたヒノキから「木取り」をすることから制作がはじまります。面の輪郭以外を鋸ノミで表面の輪郭を削りながら整える「荒彫り」、顔貌を彫りすすめ面裏を大まかに削る「中彫り」、彫刻刀で目鼻や口の形を整え、面裏を整える「木地の仕上げ」という形を整える工程。仕上げに向かい整えていく、漆を重ねる「面裏の漆塗り」、胡粉とニカワで下地を塗り、更に上塗りで丁寧に色を入れていく「彩色」、面により歯に鍛金や毛を木地に植えつける「金具や植毛」という全8工程を経て完成になるのです。

「基礎が彫れていないと面は打てませんし、下地が悪いと何をしても良くなりませんから、全ての工程で気を抜けません。胡粉を用いた彩色は面白いですが、髪の毛など湾曲した面に線を引くのは、なかなか難しいもので。まだまだ分からないことばかりで奥が深く、探求し鍛錬しないといけませんね」

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歴史を知り、
能面と向き合い
侘び寂びの世界の
深淵に触れていく。

能面が日本に伝わったのは飛鳥時代で、百済の味摩之が中国南部・呉の伎楽を伝えたことがルーツとされています。源流と考えられるのは、鎌倉時代に翁猿楽で用いられた翁面。南北朝時代の猿楽・田楽の発展に伴い能面の制作がはじまり、室町時代初期の世阿弥の時代にその猿楽が大成したことで鬼面や女面など徐々に種類が増えていきました。

室町時代後期から安土桃山時代にかけて様式が完成し、種類もほぼ出揃い演目との対応が確立。江戸時代には大名による名品の蒐集が盛んになり、創作よりも模作中心となりましたが、明治維新以降、幕府や藩の庇護を失った能楽界は衰退しました。これに伴い世襲面打ち家も絶えた一方で、国外では美術品として珍重されています。

「何事も同じですが、バックグラウンドを知っているのと、知らないのでは違ってきます。同好会の会話の中には歴史も出てきますから、知っていれば理解が深まりますし、また知っていることで面に対する向き合い方が変わってくると思います。ただ形を作るだけでなく、心までも作れるようになると面の形が変わってくるものでしょう」

何よりも“知ること”の重要性を説く背景には、62歳から3年間通った國學院大學神道文化部の特別講習で、勉強するほどに浅学、知識の浅い自分を痛感した経験があります。同時に学びの喜びを知り、なぜ茨城県に能面の同好会があるのかを能面に惹かれると同時に深く考察するようにもなりました。

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「茨城県は古の伝統が多く残っていると思います。例えば、筑波山にある筑波神社の御祭神は、男体山に祀る筑波男大神・伊弉諾尊(イザナギノミコト)、女体山に祀る筑波女大神・伊弉冊尊(イザナミノミコト)の夫婦の御神体ですね。摂社に祀られるのは、天照大御神(アマテラスオオミノカミ)、素戔嗚尊(スサノオノミコト)、月読尊(ツクヨミノミコト)、蛭子命(ヒルコノミコト)と『古事記』や『日本書紀』に登場する神々です。そして、『延喜式神名帳』(延長5年/927年)でもっとも格式が高いとされた神社は伊勢神宮(三重)、鹿島神宮(茨城)、香取神宮(千葉)ですが、利根川を挟んで近くに相対する鹿島神宮・香取神宮がある。この神宮二社は伊勢神宮より歴史が600年以上も古く、神武天皇の創建と伝えられています。茨城県を流れる小貝川からは富士山・日光の山々、筑波山が見えますから……もしかして、日本の先史時代遺跡は圧倒的に関東・東北に多く、縄文時代には日本の人口の8割以上が東日本医住んでいたという研究もあり、当地は政治の中心だったのでは? 想像がふくらみますねぇ。そんな土地柄と平地が多く農耕が盛んで豊かだったことで文化を支えられ、能面文化を継続する同好会が現在も複数残っているのかもしれません」

能面を用いる神楽や能には、国生み神話や『天岩戸隠れ』、『八岐の大蛇』などで神々が活躍する物語が多くあります。まさに、背景を知るという学び。探究心を常にたずさえて自身の知識を深めていく、一麻呂氏。日々の生活で行き交う人々の表情を観察し、得た感覚を指先に宿し木面に伝えた先にある、理想の能面を描いているのでしょうか?

「余分な全てを削ぎ落とす“侘”、時の流れ劣化を楽しむ“寂”という日本の美学が詰まった能の世界を彩る能面の奥深さにはまだ到達できませんし、やるほどに難しさを感じています。でも、だからこそ楽しいんですよ。『これでいい』と思わないから、いつまでも追い求められていけますよね? もちろん、いつかはキチッと小面(こおもて)を打ちたいという目標はあります。のっぺらぼうで簡単に見えますが、シンプルなだけに非常に難しい。いつか真似事ではない、その心までを打ち自分が納得する小面を作り上げたいですね」

完成した瞬間さえも次への通過点――。難しさがあるからこそ楽しい奥深さがある能面制作の道は、尽きることなく続いていきます。

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